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留年工学

20240129

・怪しげな試験

 院試に必要らしいのでTOEICを受けてきた。自分の英語学力はというと、大学受験を終えてから一切勉強していない。受験時の自分の学力は以下のようなものだ。ここから四年間全く英語学習をしていないので、相当の劣化が見られるだろう。

センター英語175~190前半

東大英語55~60中盤

東工大英語(現役)115/150

 正直試験は今までの人生でこれくらいしか受けていないので他は知らない。長文読解がやや得意で、記述系はあまり良くなかった。私立大学理系の英語問題は基本的にどこでも合格点は取れるくらいだったと思う。

 なお、完全に無対策で受けたらどうなるか?という事が気になったため、一切TOEIC関連の勉強はしていない。試験会場に行ってお楽しみのドッキリ状態だった。

 

結果発表

……なんだこの点数は、たまげたなあ。

正直インターネットの情報から無勉でも600くらいは取れて当たり前という認識だったが、そこまで世の中は甘くはなかった。

 Lesteningの方が高いのが意外だった。受験生の当時は特に何もしていないし、それからも触れる機会は大してなかった。これは上振れといえるが、明らかに簡単な問題も多かった為、そもそも求められている水準が微妙なのかもしれない

 根本的に改善するべきだと思った部分は、時間配分である。完全に無対策だった為、どの設問にどの程度時間をかけるべきか?という点が分からなかった。また、時計も忘れたため、試験がいつ終わるのかも分からなかった。

 そこで、とりあえず適当に要素を拾い集めて最速で解いていたら15分くらい余ってしまったので、全てが中途半端となった。マークシートがされていない状態は避けたかったという一心である。正直これさえなければ600くらいは乗っていた気もする。

 問題の水準としてはそれほどでもなかったと思う。量の多い共通テストという認識で、特別問題は感じない。とりあえず量をこなして形式に慣れた後、3月の結果がどうなるかを見てみよう。

 

・当面の目標

 無事に研究室配属するだけの単位(卒論以外のこと)は取れそうだが、GPAが終わってしまった。恐らく相当不人気の研究室に配属されることになるだろうし、そこは間違いなく自分のやりたいことではない。したがって、外部院の受験はほぼ確定したと言えるだろう。

 正直今後の人生がどうなっていくのか、自分が何を研究したいのかも全く分からない(少なくとも金属屋ではない)が、とりあえず2月中は線形代数解析学の復習をしていく事にする。

20231207

・焦燥

 中学生の頃から、自分の文章の構成方法は変わらない。まずは書きたい内容をいくつか書き出し、そのそれぞれを独立して進行する。特に繋がりなどは考えず、一つを書き終えてから次に行くといったこともない。そして、全てが完成したらそれらを校正し、繋げる作業が始まる。

 このような文章の書き方は、結局のところ飽き性から来るものなのだろう。書きたいことが他にもあったらそちらに興味が向くし、言語化が難しい部分をすっぽりと投げ出してしまう。

 ロクに更新していない日記だが、こういった性質のせいで、書きだめだけは溜まっている。そして記憶や意思は期限切れとなり、一生の没ネタとなる。これは学術書で詰まったら放り出してゲームをやったり、キリのいい所まで終わらせず適当に次の学術書を読み始めるとか、そういった性質に近い。

 大学生になり、情緒が安定してしまったので、ロクに日記を書くこともなくなってしまった。若い頃の自分にとって日記を書く作業というのは一種のストレス発散であったから、衝動のままに取り憑かれたように書き、現実が充足している時はやる気がなかった。

 一方で、今は快楽ではなく、その時点での自分の思考や行動を記録する手段として価値を感じ始めているので、いよいよ自らモチベーションを生み出して日記を書かなければならないと感じている。今となってはかつての自分の情熱はなんだったのかも、最初からそんなものがあったのかも分からないし、数日前の自分が考えていたことも、忘れてしまう

 日記では手軽に自分の思考を詰め込むことができる。これを読めば誰でも、自身の行動規範を理解し、思考をエミュレーションできる状態にできれば、それは遺伝子を残す以上に、自身が生きた証拠となるのではないか。

 ……と、意気込んだのはいいものの、中高生の自分と比べれば、今の文章能力は、読解に関しても記述に関しても相当の劣化がみられる。インターネットでしか文章を読まなくなってしまったし、Twitterや動画媒体で学べる修辞はエンタメに特化したものであるから、長文と書くといった能力が失われてしまったのである。

 あっそうだ。物語でも作ろうかな。

20230616

・差異

 今年かなり衝撃を受けたこととして、「靴は壊れないという認知が多数派」というものがある。大学での実験中、自分の所属している大学の実験グループは地方から上京した、それなりに明るい活力に満ちた人間が多く、実験中に集合写真を取るなど、一般的な工学部のイメージとはかけ離れていた。

 なんとなく「そろそろ靴が壊れてきて」と雑談の種に話したら、靴が壊れるという表現がやけに引っかかったらしく、靴は壊れる前にボロくなってきたら捨てるものでは?という派閥と、ワイヤー等に引っ掛かったら壊れるのではないか、という派閥に分かれ、どのみち靴がボロボロになるまで履き続けるという選択肢を想定した者はいないようだった。

 おれは子供の頃から根本的に自分の身なりに大して興味がなく、着るものすべて「着れればいい」という判断をしている。しかし、身なりにそれなりに気を遣っている人間ならば、普通は靴はボロボロになった時点でみすぼらしいから捨てるのだ。間違っても靴はボロボロになった方が足の指がグリップしやすく使いやすい、などと言ってはならない。

 靴への無関心と自閉や発達にはそれなりの因縁があると考える。よくアニメでのドジっ子は「よく転ぶ」という描写がされるが、注意欠陥だったり発達の遅れの強い人間にとっては、大して自分の着用する物に関心がないため、親が適当に買ってきたサイズもあっていない靴を履くし、自分で選ぶ時も試着などしない。手先は不器用なので、靴紐はちゃんと結べないし、ついでにかかとを踏み潰している。そんな理由からとにかくよく転ぶ。何もない所でも転ぶ。少なくとも自分はそうだった。

 ドジっ子アニメキャラクターとしては最近の作品だとDo it yourselfのせるふが記憶に新しい。あのキャラクターはあまりに注意欠陥の解像度が高いため、当事者もしくは当事者のケアをしていた側の人間によって作られていると思っている。当事者にしてはあまりに解像度が高すぎるので、やっぱりぷりん側の人間が作ったキャラなんじゃないかな……(その節はお世話になりました)。

 小中高では上履きという劣化しやすく、かかとの潰れやすさは他の追随を許さない靴が使用される。また、足を前に強く蹴り出す事によって上履きを飛ばし、飛距離を競うレクリエーションがあるが、あれはかかとが潰れなければ参加権を得られない。よくもあんな環境で学生が過ごして、階段でころんで大怪我をする、という事例が多発しないものだと思う。

 

Vtuber

 人のゲームやってるの見るのって別にそんな好きじゃないんですよね。生身の人間のゲーム実況では基本的にプレイしている人間のリアクションやそれに付随して物語性を見出す事を重視しているように思う。実際、Vtuberのコメント欄を見ると成長していて努力が目に見えるとか、感動したとか、絡みが尊いとか、まあそんな感じのコメントも多いわけだ。

 だけど、BiimRTA淫夢実況はそれと比較すると楽しみ方が投稿者個人に依拠しているわけではないから、ゲームそのものに対する思い入れや興味のある視聴者が集まりやすい。これがニュートラルなコンテンツのメリットである。特にニコニコでは、コメント機能の性質も相まって説明や補足、作品への愛への共感を存分に楽しむことができる。

 もちろん投稿者の人格に依拠する楽しみ方も理解はしているんですけど、おれはアレなので人間にそんなに興味が持てないんですね。あと、ゲームそのものへのリスペクトみたいな拘りが強く、人がゲームより前に出るタイプはあんまり好きじゃない。そのへんをうまく調和した投稿者がいたら紹介してくれると嬉しいです。

 厨ポケ狩り講座くらいエンタメに特化するとそういうの全部ぶっ飛ばして最高になるんだけど、あの時代のポケモン対戦ってある程度コアな層しか集まらなかったので、自動的にゲームへの敬意みたいな条件は満たされていた気もする。難しいですね。

20230614

・人生の順番

1. なんだこれ

2. なんもねえぞこれ

3. このまま終わったら逆にすごいな

4. あっ(察し)

5. まあいいか

6. まあいいか(以下くりかえし)

...

n. もういいか。

 

・煉獄庭園について

中学のおれ「賀正素材その1ってタイトルと曲の組み合わせ超ヤバかっけえ!!!!」

今のおれ「賀正素材その1ってタイトルと曲の組み合わせ超ヤバかっけえ!!!!」

自分、将来曲作る事あったらめっちゃメッセージ性込めて「森ステージ1」とか付けていいすか?

 

異世界転生

 異世界転生の流行を安易に現世に対する諦めに繋げるのは思考停止ではないか。どちらかというと現世と切り離す為の舞台装置と、作者側にとっての話の作りやすさじゃない?

 Typical Naroにおいて序盤がテンプレート化されているのは様々なアニメを見ているとなんとなく分かるんですけど、テンプレート化された序盤が割とキツさの原因であるのも感じる。だからなろう系のアニメって序盤さえ乗り切れば後は割とスラスラ見れるんですよね。アニメ化されている上澄みというのもあるんでしょうけど……

 これが小説や漫画なら「ああこんな感じね」で軽く流せるので、体験は大きく変わってくると思います。アニメ化ではここをどう表現するかが重要になってきそう。

 皆さんは異世界転生そんなにしたいですか?そもそも、記憶が引き継がれたとしても、鈍麻した感情や薄暗い精神性が足を引っ張るだけで、自我の連続性を保てる事がメリットとなり得ないのではないでしょうか。

 一方で記憶や認知機能が引き継がれないならば正直どうでもよくなります。自分とは完全に何の関係もない別人なので好きにやって欲しい。できれば後悔のない生を送って欲しいが、それは見ず知らずの他人に対する感情と変わらない。

 

 

真実に向き合う

ぼくは科学にとても時間を割いたし、いまも割いているが、きっかけは数学で小さな公理系から大きな一般論が見えてくる感動によるものだった。そこに侵略はなく、ただ世界がどんどん広がっていったり、ものすごく極端な角度から世界を見る絶景があった。

やがて世界を知り始めると、世界はこんな生き物がいて、こんなことが起きて、こんなだに広いのだとワクワクした。近所の裏山だって、高い丘から見たって、森の穴の中に何があるかは分からない。ぼくはそういうもの強い神秘を感じた。

少し離れた時期もあったけれど、結局科学をやることになった。しかし、高等な物理や工学では、自然をいかに定量化してハックし、神秘を剥ぎ取るかに注力する。自然が好きなぼくにとって、自分が勝手に感じていた神秘が剥ぎ取られていき、あまつさえ人の手に落ちていくことに耐え難い気分になっていたが、周囲の人間(生物系を含む)は、いくら自然が好きでもそういう感情はないらしい。なぜだろう?

逆に、科学が好きではない人たちは簡単にこういう話を反知性や反資本主義に繋げてくるが、ぼくは科学という叡智が人類に及ぼした影響も、自らの受けた恩恵も理解しているし、何よりも好きだった。ただ子供の頃から親しんだものが侵されていく感触が悲しかっただけなのに、作られた文脈に回収されていく。結局ひとかけらの理解も得ることはできずに終わる。

結局ぼくも周囲にそういう感情があるかどうか確認していただけで、本質的な理解など求めていないのでどうでもいいことだ。そもそも、ぼくの知識や喜びがそうであるかは分からないが、喪失や痛みは絶対にぼくだけのものであり、文字や映像におこした経験も記憶も本質ではないから、好きなだけ開示するし、好きなだけなぞって、解釈を与えていればいい。

20230509

・始まり

 子供の頃は自己表現が苦手だった。小学校では、つねに自分の経験に基づいた「感想」を求められる。これは家庭が貧困で人と関わるのも面倒だったので、経験を積む機会も特になく、ひたすらゲームとインターネットと読書をしていた自分にとっては困難を極めた。

 自己表現が苦手だったもう一つの理由としては、特別自尊心の低い子供だったからという他にない。自分の発信に価値などなく、誰しも自分を重く見ていないのだろうと思っていた。誰もそれほど自分に注目せず、嫌ってもいないという平衡が保たれた状態から、いたずらに自己主張を行って奇異の目を向けられるのを嫌った。それと、中身がないので素性を打ち明け、不必要に注目されても後始末ができないと思っていた。一種の照れ屋とも言えるかもしれない。

 そんな調子だから、親や教師からも、この子供は何かを創作させることにかけては特にダメだという扱いだった。とにかくなんでも良いと言われても、ゼロから作り上げる限りは自分の「色」が生まれてしまう。それを限りなく透明に近付けるために、相当な努力をしてひねり出して、ついにはこれなら良いだろうという物を出す。それは驚くほど模範的で、例をコピーペーストしたようだ。教員や親に絶賛され、次もこんな感じでやってくれよ、とは言われるのだが、こんなものがおいそれと書けるものか、と思う。今思えば、まさにその「色」が求められていたのだろうし、額縁の中の、ひび割れ一つない不気味なほどの透明は何よりも目立つ「色」だった。

 結局、自分には不真面目な天才というレッテルが貼られることとなる。やればできるがやらないという評価は理解の放棄に過ぎず、悪意をぶつける事への免罪符でもあったが、結果として様々な諦めが生まれ、過ごしやすくはなった。また、持病の小児喘息で運動神経が悪い事まで不真面目の一部とされたので、相当精神に問題のある子供として扱われていた。

 変わって決まった文章を読んだり、書かれていることを読解するのは得意だった。音読も人と話すよりもハッキリとしていたし、現代文の成績も大学受験段階までは概ね良かったと思う(それ以降に読解力的なものを図る機会はなかった)。教員にも、友人と話す時よりも音読をする時の方が声が大きいのはお前くらいだと不気味がられた。

 インターネットの匿名掲示板やSNS(当時はブラウザゲームのゲーム内チャットや、それに派生したチャットルームなどである)を知って、自分から発信するようになってからは、自分は徐々に饒舌となり、発信に自信を持つようになっていった。当時のインターネットには自分よりも年上ばかりだったので、その中でのコミュニケーションに習熟すれば、小学校グループの中でのユーモアでは一歩先を行くことになる。

 作文が得意になったのも、読解が得意になったのもインターネットの影響が大きい。インターネット掲示板では、論争(レスバトルと読む)に勝つ為には常に相手の意を汲む必要があるし、議論の本質と勝利条件を見極めなければ水掛け論に終わる。これを意図せずに仮に不利な状況から話題を反らして勝利をしたとしても、偶然の勝利に過ぎない。必然の勝利への執着だった。

 ネットに溢れる文章によるやや露悪的なユーモアには、たとえ事実とは異なっても視点の変更や極論が効果に使われていたので、インターネットは視点を広げるのに大いに役に立った。

 昔の匿名掲示板ではコピペ改変大喜利のような文化が色濃かった。今となっては死語だが、○○のガイドラインというやつである。現代でいえば淫夢で永遠に迫真空手部のフォーマットが使い回されるようなもので、現実でも多用されるものの、著作権の意識の低いネット上ではとりわけ色濃いと思う。自分はこれに熱中し、そして表現において、価値を生み出すのに模倣は避けられないプロセスである事に気付いたのだ。

 特定の何かに向けた作文という同じ公理系から出発している以上、他人と工程が似るのはある種必然であり、公理なしに系を成立させる事は出来ない。自分でイチから作らずとも、例をもとに持ち合わせの素材を使って成立させていけばよい。

 他人と同じなのは想像力の欠如ではないし、うっかり不必要に注目を集めてしまった際にも、それを逸らすやり方がある。自己表現に関する心配事の多くは、学習によって取り払われたのだ。

 ネットがなかったら、自分はどう育っていただろうか。あのまま一生自分の殻に閉じこもっていたのかもしれないし、また別の機会で能力は改善されていたのかもしれない。時折考えるのは、インターネット以外では何が得られたのだろうか、という事だ。例えば、人との出会いや家族との向き合いによって自閉傾向が改善されたのならば、他人への信頼を同時に勝ち取ることが出来るだろう。

 洞窟物語ではブースター0.8を手に入れると、その直後の攻略は楽になるものの、ストーリーの本題にかかわるブースター2.0を手に入れる事はできない。人生で駒を一歩先に進めるたびに、こうした取り逃したものの怨嗟が聞こえてくるような気分になる。実際、おれの人生は常にどんよりとしていて、何かが憑いているようだ。

 何はともあれ幼少期を思い返すと、不遇で、重苦しかったとだけ思う。不必要な自責や縛り、恐れが多く、それを正すような機会も少ないどころか、周囲の人間の態度が加速させていくばかりだった。家族との関わりは殆どなかったので、基本的に不自由もなかったのだが、ただ常に焦燥感と、やりたくない事をやっているという気持ちだけがあった。楽しかったのは漫画やゲーム等のコンテンツに触れている時のみである。

 しょせん過去は過去であり、喉元を過ぎ去った痛みは使い物にならない。それをいいように解釈して動機づけをするのも一つの手ではあるが、腐りきった木材で作った城に誇りを持つ才能はなかったし、それに囚われる惨めさにも耐えられないだろう。どれだけ歩んできた道が薄暗くとも、背中に罪を背負おうとも、進まなければならない。

 

 

 

20230418

・モンエナスイカ

 なにやらモンスターエナジーの新作が出ていたので買った。モンスターエナジーは試験勉強の時に入手性の良いカフェインとして利用していたら飲むだけで気分が悪くなるようになってしまったので、もう緑を飲むことはできない(白とピンクはおいしい)。似たような味のZoneやレドブルは何故か飲めるので、恐らく緑モンエナの臭いが失敗し続けた大学受験の象徴として心に刻み込まれているのだろう。

 グラスに注ぐと、イチゴのような色が見えたし、実際にスイカというよりもイチゴの臭いがするので普通にイチゴ味だと思っていた。飲んでみても当然味はイチゴであり、言われてみれば後からだいぶ菓子として抽象化されたスイカの香りがするような気もする。良くも悪くも棘がなく、スイカから瓜の匂いを抜いた感じ。

 これまで様々な飲料や菓子類がスイカ味に挑戦してきたが、その多くは微妙な出来であったし、これは恐らく歴史上行われてきた悲劇を回避する為に安定を選んだ味なのだろう。

 この企業はこれまで何らかのモチーフがあるであろう味を「カオス」や「ウルトラパラダイス(何それ?)」として誤魔化し、本質を明示せずに謎の表記ばかりしていたのだが、今回はこれがWater melonだ!!!と喧伝してきたのでかなりスイカっぽさを期待していた。その結果がこの味では、少々残念と言わざるを得ない。普通に飲める事と、人工甘味料感があまりない所はよかった。なお、私はエナジードリンクが特別好きなわけではなく、新作の飲み物は大体買っているだけである。

 

・4年目

 留年したので大学四年生(研究室未配属)となりました。授業を受けています。授業のうち半分くらいは既習であり、基本的に大学の授業は例外はあるものの二度受講することは前提とされていない為、去年と同じ内容である。すなわち、再履修に要する労力は結構少ないんですよね。数えたら19単位全て再履修だったんですけど……。

 どの再履修科目も授業は大体出ていて60点必要な所を45点くらいしか取れなかったり、テストだけ出なかった感じで、ともかく2日勉強期間を取れば良になる程度の理解度だ。では何故勉強しなかったのか?答えはシンプルで、単純なキャパオーバーとやる気のなさが原因である。週2で合計5コマあって3単位の実験が重すぎましたね……。

 本来過去レポや過去問なりで学習の手間を省くらしいが、友達が一人もいないのでそういう事はありませんでした。おれより明らかに勉強なんかしていないだろうといいう人間が次々進級していって驚いたが、それもまた一興。

 実験もゼミも取りきってしまったので元々ない同級生との交流が本当にないんですが、ドイツ語のせいで1年生との交流が生まれてしまった。6歳年下でも案外バレないもんですね。

 今年やりたい事は以下の通り!(基本的に上に行くほどやらなければならない∧やりたくない)

・Material science, 特に物性・結晶とそれに必要な物理(量子や統計)

・各種英語試験

・四力

・数学

 勉強は好きだけど、おれは散発的にしか勉強ができないし、興味があれこれと移るきらいがあるので、将来はよくわからない。ただ、選択肢を広げる謎の作業をしている。何もわからない。

 

・乙4

 3/26日に受けた謎の試験の結果が帰ってきた。6割取れば合格である。

法令 80%

物化 90%

性状 100%

 まるで真面目に勉強した人みたいな結果となった。マークシート式はこのようにFifty-Fiftyを7割くらい当てる事により高得点を取れるので、試行回数を稼ぐ事が重要となる。だからおれはセンター試験を5回も受けたわけだが、結果はこの有様である。

 何点であろうと合格は合格だが、実際に確信を持っていた問題は法令が6割でほかは7割程度といった所なので、無意味な運ゲーに勝利した事が分かる。

 監視奴隷になります!!!学費を稼がせて貰いまッス!!(白目)