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留年工学

20230509

・始まり

 子供の頃は自己表現が苦手だった。小学校では、つねに自分の経験に基づいた「感想」を求められる。これは家庭が貧困で人と関わるのも面倒だったので、経験を積む機会も特になく、ひたすらゲームとインターネットと読書をしていた自分にとっては困難を極めた。

 自己表現が苦手だったもう一つの理由としては、特別自尊心の低い子供だったからという他にない。自分の発信に価値などなく、誰しも自分を重く見ていないのだろうと思っていた。誰もそれほど自分に注目せず、嫌ってもいないという平衡が保たれた状態から、いたずらに自己主張を行って奇異の目を向けられるのを嫌った。それと、中身がないので素性を打ち明け、不必要に注目されても後始末ができないと思っていた。一種の照れ屋とも言えるかもしれない。

 そんな調子だから、親や教師からも、この子供は何かを創作させることにかけては特にダメだという扱いだった。とにかくなんでも良いと言われても、ゼロから作り上げる限りは自分の「色」が生まれてしまう。それを限りなく透明に近付けるために、相当な努力をしてひねり出して、ついにはこれなら良いだろうという物を出す。それは驚くほど模範的で、例をコピーペーストしたようだ。教員や親に絶賛され、次もこんな感じでやってくれよ、とは言われるのだが、こんなものがおいそれと書けるものか、と思う。今思えば、まさにその「色」が求められていたのだろうし、額縁の中の、ひび割れ一つない不気味なほどの透明は何よりも目立つ「色」だった。

 結局、自分には不真面目な天才というレッテルが貼られることとなる。やればできるがやらないという評価は理解の放棄に過ぎず、悪意をぶつける事への免罪符でもあったが、結果として様々な諦めが生まれ、過ごしやすくはなった。また、持病の小児喘息で運動神経が悪い事まで不真面目の一部とされたので、相当精神に問題のある子供として扱われていた。

 変わって決まった文章を読んだり、書かれていることを読解するのは得意だった。音読も人と話すよりもハッキリとしていたし、現代文の成績も大学受験段階までは概ね良かったと思う(それ以降に読解力的なものを図る機会はなかった)。教員にも、友人と話す時よりも音読をする時の方が声が大きいのはお前くらいだと不気味がられた。

 インターネットの匿名掲示板やSNS(当時はブラウザゲームのゲーム内チャットや、それに派生したチャットルームなどである)を知って、自分から発信するようになってからは、自分は徐々に饒舌となり、発信に自信を持つようになっていった。当時のインターネットには自分よりも年上ばかりだったので、その中でのコミュニケーションに習熟すれば、小学校グループの中でのユーモアでは一歩先を行くことになる。

 作文が得意になったのも、読解が得意になったのもインターネットの影響が大きい。インターネット掲示板では、論争(レスバトルと読む)に勝つ為には常に相手の意を汲む必要があるし、議論の本質と勝利条件を見極めなければ水掛け論に終わる。これを意図せずに仮に不利な状況から話題を反らして勝利をしたとしても、偶然の勝利に過ぎない。必然の勝利への執着だった。

 ネットに溢れる文章によるやや露悪的なユーモアには、たとえ事実とは異なっても視点の変更や極論が効果に使われていたので、インターネットは視点を広げるのに大いに役に立った。

 昔の匿名掲示板ではコピペ改変大喜利のような文化が色濃かった。今となっては死語だが、○○のガイドラインというやつである。現代でいえば淫夢で永遠に迫真空手部のフォーマットが使い回されるようなもので、現実でも多用されるものの、著作権の意識の低いネット上ではとりわけ色濃いと思う。自分はこれに熱中し、そして表現において、価値を生み出すのに模倣は避けられないプロセスである事に気付いたのだ。

 特定の何かに向けた作文という同じ公理系から出発している以上、他人と工程が似るのはある種必然であり、公理なしに系を成立させる事は出来ない。自分でイチから作らずとも、例をもとに持ち合わせの素材を使って成立させていけばよい。

 他人と同じなのは想像力の欠如ではないし、うっかり不必要に注目を集めてしまった際にも、それを逸らすやり方がある。自己表現に関する心配事の多くは、学習によって取り払われたのだ。

 ネットがなかったら、自分はどう育っていただろうか。あのまま一生自分の殻に閉じこもっていたのかもしれないし、また別の機会で能力は改善されていたのかもしれない。時折考えるのは、インターネット以外では何が得られたのだろうか、という事だ。例えば、人との出会いや家族との向き合いによって自閉傾向が改善されたのならば、他人への信頼を同時に勝ち取ることが出来るだろう。

 洞窟物語ではブースター0.8を手に入れると、その直後の攻略は楽になるものの、ストーリーの本題にかかわるブースター2.0を手に入れる事はできない。人生で駒を一歩先に進めるたびに、こうした取り逃したものの怨嗟が聞こえてくるような気分になる。実際、おれの人生は常にどんよりとしていて、何かが憑いているようだ。

 何はともあれ幼少期を思い返すと、不遇で、重苦しかったとだけ思う。不必要な自責や縛り、恐れが多く、それを正すような機会も少ないどころか、周囲の人間の態度が加速させていくばかりだった。家族との関わりは殆どなかったので、基本的に不自由もなかったのだが、ただ常に焦燥感と、やりたくない事をやっているという気持ちだけがあった。楽しかったのは漫画やゲーム等のコンテンツに触れている時のみである。

 しょせん過去は過去であり、喉元を過ぎ去った痛みは使い物にならない。それをいいように解釈して動機づけをするのも一つの手ではあるが、腐りきった木材で作った城に誇りを持つ才能はなかったし、それに囚われる惨めさにも耐えられないだろう。どれだけ歩んできた道が薄暗くとも、背中に罪を背負おうとも、進まなければならない。