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留年工学

真実に向き合う

ぼくは科学にとても時間を割いたし、いまも割いているが、きっかけは数学で小さな公理系から大きな一般論が見えてくる感動によるものだった。そこに侵略はなく、ただ世界がどんどん広がっていったり、ものすごく極端な角度から世界を見る絶景があった。

やがて世界を知り始めると、世界はこんな生き物がいて、こんなことが起きて、こんなだに広いのだとワクワクした。近所の裏山だって、高い丘から見たって、森の穴の中に何があるかは分からない。ぼくはそういうもの強い神秘を感じた。

少し離れた時期もあったけれど、結局科学をやることになった。しかし、高等な物理や工学では、自然をいかに定量化してハックし、神秘を剥ぎ取るかに注力する。自然が好きなぼくにとって、自分が勝手に感じていた神秘が剥ぎ取られていき、あまつさえ人の手に落ちていくことに耐え難い気分になっていたが、周囲の人間(生物系を含む)は、いくら自然が好きでもそういう感情はないらしい。なぜだろう?

逆に、科学が好きではない人たちは簡単にこういう話を反知性や反資本主義に繋げてくるが、ぼくは科学という叡智が人類に及ぼした影響も、自らの受けた恩恵も理解しているし、何よりも好きだった。ただ子供の頃から親しんだものが侵されていく感触が悲しかっただけなのに、作られた文脈に回収されていく。結局ひとかけらの理解も得ることはできずに終わる。

結局ぼくも周囲にそういう感情があるかどうか確認していただけで、本質的な理解など求めていないのでどうでもいいことだ。そもそも、ぼくの知識や喜びがそうであるかは分からないが、喪失や痛みは絶対にぼくだけのものであり、文字や映像におこした経験も記憶も本質ではないから、好きなだけ開示するし、好きなだけなぞって、解釈を与えていればいい。